弊社は、元々、織物会社としてスタートいたしました。昭和42年に法人設立と書くと想像できますが、和装の素材、着物生地を製織する会社として(当初は個人、組合、そして法人化へ)営んでいましたが、取り巻く環境の変化に追い立てられるように内容を変化させて、現在は企業名を冠するのが恥ずかしいような個人企業としてインターネット関連の事業を行っています。
このページでは、会社の理念、そして会社のこれまでを書いています。よろしければご覧下さい。
会社の理念なんて偉そうに書くと、どんなりっぱな会社、あるいは人物なんだろうと思われるでしょう。いや実際は、こんな小さな会社でこんな小さな人間ですから、穴があったら入りたいような気分なのですが、会社ホームページの項目としてやはりあった方が良いでしょうから、社長としての自分の思いを書かせていただくだけでご勘弁願いたいと思います。
まずは、こちらの写真をご覧ください。
これは、当社がまだ織物会社であった頃、着物の図案をいつもお願いしていた京都市の故田邊曙光(たなべしょっこう)画伯から頂戴したものです。当社は東海道五十三次や天神祭などの絵を着物に織で表現した訪問着を制作していたのですが、それらの原図をいつも描いてもらっていたのが先生だったのです。先生は、図案を描くにあたっては、ロープの張り具合ひとつまで正確に描かねば気が済まないような堅い真面目な方でしたが、描写された群衆の中に「(私の)お父さんが孫の手をひいてお祭りを見ているのを混ぜておいたから」なんていうシャレのセンスもあった方で、とても優しい目をした方でした。たぶん当社で織り上げた訪問着(「壽光織」というブランドでした)をお持ちでしたら、例えば東海道五十三次の柄なら、日本橋を渡っている人がさしている番傘の上に「丹後ちりめん」なんていう宣伝がされているのに気付かれることでしょう。先生も私の父も、そしてまた私もそういう感覚が大好きでした。
その画伯を一人訪ねた時、「これは他の呉服屋さんが販促に使うからと作ったものだけど、あなたにあげますね」と落款を押して下さったものです。当社の事務所に飾っていますが、とてもこの文面が気にいってます。
いとこの結婚式の祝電にこの文章を混ぜて送ったら、出席されていた来賓の方がぜひうちの会社でする話に使いたいからコピーをさせて欲しいと言われたとか聞きました。どなたがこの文面を使われてもいいですが、創作はこちらの画伯だという事をちゃんと記してくださいね。私が作った文章ではありませんので念のため。
ここで改めて書き出してみます。
夢のある者は希望がある
希望のある者は目標がある
目標のある者は計画がある
計画のある者は行動がある
行動のある者は実績がある
実績のある者は反省がある
反省のある者は進歩がある
進歩のある者には夢がある
夢と書くとすぐに寝て見る夢を連想される方もあるかもしれませんが、ここで言う夢は自分が叶えたいと思う方の夢です。そして、それが私の生活信条であって、夢の中身はその時期ごとに変遷してきても変わらないで一本のレールとなって今日を導いてきてくれたのは、この信条だと考えています。
。。。そして今の夢
会社の沿革の方で少し書きましたが、織物業、塾、そして今のネット業と色々と経験してきました。その中で、織物業は今で言うBtoB(Business to Business)の世界。つまり仲間取引がすべてでしたので、斬新な技術、目新しい技術、ユニークな柄と他社とは少しでも異なる物を追い求めてやってきました。その中では難しい技術、難解な用語なども知らないのは恥という論理が通じる世界でした。
ところが、塾、そしてネットへと業態が変わると、BtoC(Business to Customer)の世界、つまりお客様は全くの一般の方が対象となってしまいました。そんな中、特にネットでの仕事をする中で、いわゆる自称ベンチャー企業の方や自称技術者の方々の中にとても難解な専門用語を駆使して、一般の方々を煙に巻く商売をされる方が多いのに気づきました。確かにものすごく知識も豊富ですし技術もある方なのですが、それだけにそういった物言いをされるのに釈然としてない気持ちで横で見ていました。
「物事を本当に理解している人の話は分かりやすい」という意見がありますが、これは定説だと思います。論文でも何が書かれているのかチンプンカンなのは、分からないこちらが悪い・・のでは無くて、書いている人が実はよく分かっていないから難しい用語でごまかしている事が多い、と聞きます。文学でも、哲学でも、科学でも、そして日常生活でもすべて同じでしょう。
このインターネットの世界は技術の進歩が著しくて、日進月歩どころか分進時歩です。朝に最先端であったはずの技術が、夕方には世界のどこかから全く新たな技術が出て陳腐化してしまうという事もよくある話で、それだけにかみ砕いた表現はどうすれば良いかと一生懸命考えている余裕は無いのかもしれません。
しかしだからこそ当社の様に一般のお客様との取引をする会社は、やさしくかみ砕いた表現が出来るように自身の技術と知識を磨いておかなければならないのだと思います。私たちは最先端の技術や知識をせいぜい吸収し、その中で利用される方がせいぜいそういう難しい話を意識せずにそれを利用出来るようにすることこそが会社としての当社の使命であり、それを実現して誰もが喜び合える社会になるお手伝いが少しでも出来るのが夢であります。
「新しい技術を、優しい技術に」。。。そんなりっぱな事はできませんが、「難しい用語を、易しい用語で」表現することは出来るかなと思い、皆様のホームページでご利用いただける便利なツールやそういう情報を提供していきたいなと思います。
織物業
昭和22年。先代の社長(父、安達四郎)が当地で織物業をスタートさせました。当初はドンゴロス(dungraees:麻袋)の様な「ごつい」織物を作っていましたが、その後絹織物に転換。同じような志を持つ人たちと共同で組合を設立し様々な着物生地を作っていました。
昭和42年7月25日。「安達織物株式会社」を設立し法人化。当時は、高度経済成長期で好景気を謳歌していたようですが、生活様式が西欧化していくと共に和装から洋装へと衣類も変化、さらに織物業そのものが斜陽産業の様相を呈してくることになります。一次産業(農林水産業)で出来たものを加工するまさに二次産業(工業製品)そのものなのですが、時代の中心産業がその二次産業から三次産業へと変貌しつつある時代だったのです。
生産をしていたのは、着物用の素材。いわゆる「丹後ちりめん」でした。小幅(36センチ幅)の織機を使って織り上げたばかりの生地は 白生地(しらきじ)と呼ばれ、手で触ってもまだゴワゴワとしています。それを精錬加工をして余分な成分を落とすと、あの真っ白な柔らかい絹素材に変身するのです。
[↑昭和48年当時の全員写真]
織物開発の好きな先代社長は、次々と新規商品を開発して一時は50人近い従業員に百台近い織機を抱えるまでに成長しましたが、前述の通り、時代は和装から洋装へ。第二次産業から第三次産業へと産業構造が変化し、着物の生地の生産は次第に縮小の道をたどることとなります。
そこで、昭和60年頃にちりめんの準備工場を改築して広幅織物の織機を導入。生産を始めました。当初は、車両のシート生地を中心に生産していましたが、折悪く海外との貿易摩擦で車の生産拠点が海外に移ったために需要が激減し、そのため服地の生産に次第に転換しました。特に同じスパン系(短繊維系)の織物という事で尾州(岐阜・愛知)の毛織物を主体に生産していました。 尾州産地の毛織物・北陸産地の合繊織物・播州の綿織物と様々な織物に取り組んできましたが、業種そのものが構造的不況業種ということもあり、採算が合わない受注が増えたために、織物業そのものを平成14年末をもって廃業いたしました。織物一筋でやってきていた父(当時は社長)にとっては苦渋の選択であったと思います。
学習塾
織物業と平行して平成6年頃から、電話やファックスを利用した学習塾事業に参入。そのころの主流の集団指導方式の通塾に対して、電話やファックスを利用した個別学習の塾でした。生徒も順調に増えていきました。電話回線を利用したテレビ電話での授業(某英語教室のシステムと似てました)やネットを利用したe-ラーニングなども模索したりしてみました。
その後、少子化の波にもまれながらも、なんとか推移しておりましたが、住まいが田舎というせいもあって地元の色々な役が年齢とともに回ってくることになり、夕方~夜にかけての仕事である塾と夜に多い地元の行事や集まりとの両立が難しくなり、ある大きな役を受けた段階で今後は無理と判断。新規の受け入れをしない形で自然廃塾といたしました。平成15年3月に最後の卒業生が受験に無事全員合格してくれたのを最後といたしました。
インターネット事業
パソコンに初めて触れたのは、シャープのMZ-80という機種が発売された時で日本のパソコンの初期でした。MZの前にナショナルの小さなワンチップマイコンキット(KX-33)を買ってCPUの動作の勉強もしましたが、機械語ということもあり何のことやらさっぱり分かりませんでした。本格的にマイコンに興味を持ったのはこのMZが出てからでした。モノクロ画面でカナ文字でしたが、プログラムを書けば(Basic)その通りに動くのが楽しかったです。
その後、マイコン・ワープロ・パソコンと何世代か過ぎて後、織物の仕事の管理にオフコンを導入。初めて漢字が使えるようになった頃です。今から思うと、オフコンを入れるまでも無い仕事の量でしたが、それがコンピューターにより関心を持ち勉強をしてみようと思い立った良いきっかけになったかと思います。
1995年(平成7年)。東京のベッコアメというプロバイダに契約して初めてインターネットというものに触れて感動。将来はこれが日本の情報の基幹になることを確信しました。普通の電話回線で遠距離接続でしたので通話料にビクビクしながらも、それよりこの先が世界中と繋がっている事が信じられなくて世界中のホームページを見て回って楽しんでおりました。
1996年3月。それまでインターネットを見て回るばかりでした時代から「自分でホームページを持ちたい」と思い、初めてレンタルサーバーを契約。わずか35メガの容量のスペースを借りただけで月額2万円を支払っていました。 HTMLを書いてサーバーにアップするとそれがうまくブラウザで表示される、ただそれだけで驚いて嬉しくて感動をしてしまっていました。特に、掲示板などの文章そのものが変化するページは、とんでもない技術なのだろう、とても手が出せないものなのだろうと思いこんでいました。
1996年4月。ドメイン名を取得。まだまだ考え方が地域に縛られていましたので地元の呼び名をドメインにしました。今ならもっとすごいドメインを取得出来たと思うのですが、その時はまだその貴重さに気づいていなかったのです。フリーで当時公開され始めていたあこがれの掲示板を少し手直しして(自由に使っていいと公開されていたので)「たんごBBS」を始めました。当然ですが丹後(京都府北部の旧国名)地方の掲示板ですから参加者はほとんどありませんでした。
1997年5月。次第に拡がりを見せ始めたインターネットでなんとか仕事に結びつけられないのかという試行錯誤の中で、全国の友達作りのページを作ってみてはどうかと思い、それまでの掲示板の限界を覚えたので自分の思う掲示板が作りたくCGI(Perl言語)の勉強を始めました。
1998年1月。これまでと全く異なる形式の会員制のホームページが完成。密かに公開しましのが、どこから伝わったのかものすごいアクセス数で、当時借りていたサーバーが転送量に応じた課金だったため利用料がものすごい事になり、急遽、転送量無制限のレンタルサーバーに引っ越しをしました。
1998年5月には専用のドメイン名も取得。無料での提供ということもあったのでしょうが、本当に爆発的な拡がりでした。その後、利用する会員の方から有料にした方がいいのではというアドバイスをいただいて有料化。名実共にすごい「出会い系サイト」が出来てしまいました。今でこそ「出会い系」というと悪の巣窟の様に言われておりますが、当時は毎月「素晴らし方と出会えて良かった」とか「結婚しました」とかの感謝メールがたくさん届きましたし、利用者も大企業の社員の方が多く(インターネットの環境がまだ限られていたのです)、有名人や警察の方々までもが利用をされていたのが懐かしく思い出されます。しかし、これでウェブプログラミングというのを勉強することが出来ました。
話が細かくなり過ぎましたが、その後は、ホームページ制作、レンタルサーバー事業などをして、いろいろと取り組んだ後、現在の会社のメイン事業となっている所謂コンテンツ事業へと転換をしました。
2011年に「勝手にAndroidアプリ大賞2011」というのが東京で開催され、まだスマホアプリの少なかった頃でしたから、弊社が当時作りました「ちょっと」というアプリが賞をいただきました(♪)。優秀だったからというのでは無くて、高齢の者が田舎で作ったというので、応援の気持ちをこめてお贈りいただいたのだと思い、感謝いたしております。授賞式に東京まで行きました。いい思い出です。
2017年に、興味を持っていた360度映像の面白いものが何か無いかとネットサーフィンをしていて、米国のマターポート社のサイトでインドアビューを発見。グーグルのインドアビュー以上のそれを見て感動し、すぐにその会社からカメラを購入し、翌年から正式なライセンスを得て制作する事業を始めました。
2021年。これまでの事業に新たに「これからは音声の時代」という事で「カスタマイズ音声」も事業の一つに加えていこうと考えています。AmazonのAlexaやGoogle Deviceなどを利用して、音声でのコミュニケーションや屋内IOT機器を音声でアクセス・コントロールする方向です。ここまではおそらく田舎の企業でも対応が可能と思われるので、「最後の挑戦」として取り組んでみます。
従来、スマホアプリなども制作してきましたが、AppleやGoogleなど大手の方針に翻弄される業界というのがよく分かりましたので、これからはそういう企業の都合に左右されないものにも関わっていきます。具体的には、交流をしない交流サイトです。変な書き方ですが、開発が完了し公開しましたら「あ、こういう意味ね」と納得していただけると嬉しいなと思います。今後の力は、これに一番投入をしていきます。この分野はまだ誰も開拓していない分野です。
田舎の個人企業というばかりでなく高齢企業にもなった弊社ではありますが、もう少し頑張っていこうと考えていますので、ご支援の程、どうぞよろしくお願いいたします。
《当ページは、2022年12月14日に記事内容の更新をしています》