弊社のこれまで

織物業

 昭和22年。先代の社長(父、安達四郎)が当地で織物業をスタートさせました。当初はドンゴロス(dungraees:麻袋)の様な「ごつい」織物を作っていましたが、その後絹織物に転換。同じような志を持つ人たちと共同で組合を設立し様々な着物生地を作っていました。

  昭和42年7月25日。「安達織物株式会社」を設立し法人化。当時は、高度経済成長期で好景気を謳歌していたようですが、生活様式が西欧化していくと共に和装から洋装へと衣類も変化、さらに織物業そのものが斜陽産業の様相を呈してくることになります。一次産業(農林水産業)で出来たものを加工するまさに二次産業(工業製品)そのものなのですが、時代の中心産業がその二次産業から三次産業へと変貌しつつある時代だったのです。

  生産をしていたのは、着物用の素材。いわゆる「丹後ちりめん」でした。小幅(36センチ幅)の織機を使って織り上げたばかりの生地は 白生地(しらきじ)と呼ばれ、手で触ってもまだゴワゴワとしています。それを精錬加工をして余分な成分を落とすと、あの真っ白な柔らかい絹素材に変身するのです。

全員写真
[↑昭和48年当時の全員写真]

 織物開発の好きな先代社長は、次々と新規商品を開発して一時は50人近い従業員に百台近い織機を抱えるまでに成長しましたが、前述の通り、時代は和装から洋装へ。第二次産業から第三次産業へと産業構造が変化し、着物の生地の生産は次第に縮小の道をたどることとなります。

  そこで、昭和60年頃にちりめんの準備工場を改築して広幅織物の織機を導入。生産を始めました。当初は、車両のシート生地を中心に生産していましたが、折悪く海外との貿易摩擦で車の生産拠点が海外に移ったために需要が激減し、そのため服地の生産に次第に転換しました。特に同じスパン系(短繊維系)の織物という事で尾州(岐阜・愛知)の毛織物を主体に生産していました。 尾州産地の毛織物・北陸産地の合繊織物・播州の綿織物と様々な織物に取り組んできましたが、業種そのものが構造的不況業種ということもあり、採算が合わない受注が増えたために、織物業そのものを平成14年末をもって廃業いたしました。織物一筋でやってきていた父(当時は社長)にとっては苦渋の選択であったと思います。

学習塾

 織物業と平行して平成6年頃から、電話やファックスを利用した学習塾事業に参入。そのころの主流の集団指導方式の通塾に対して、電話やファックスを利用した個別学習の塾でした。生徒も順調に増えていきました。電話回線を利用したテレビ電話での授業(某英語教室のシステムと似てました)やネットを利用したe-ラーニングなども模索したりしてみました。

  その後、少子化の波にもまれながらも、なんとか推移しておりましたが、住まいが田舎というせいもあって地元の色々な役が年齢とともに回ってくることになり、夕方~夜にかけての仕事である塾と夜に多い地元の行事や集まりとの両立が難しくなり、ある大きな役を受けた段階で今後は無理と判断。新規の受け入れをしない形で自然廃塾といたしました。平成15年3月に最後の卒業生が受験に無事全員合格してくれたのを最後といたしました。

インターネット事業

 パソコンに初めて触れたのは、シャープのMZ-80という機種が発売された時で日本のパソコンの初期でした。MZの前にナショナルの小さなワンチップマイコンキット(KX-33)を買ってCPUの動作の勉強もしましたが、機械語ということもあり何のことやらさっぱり分かりませんでした。本格的にマイコンに興味を持ったのはこのMZが出てからでした。モノクロ画面でカナ文字でしたが、プログラムを書けば(Basic)その通りに動くのが楽しかったです。

 その後、マイコン・ワープロ・パソコンと何世代か過ぎて後、織物の仕事の管理にオフコンを導入。初めて漢字が使えるようになった頃です。今から思うと、オフコンを入れるまでも無い仕事の量でしたが、それがコンピューターにより関心を持ち勉強をしてみようと思い立った良いきっかけになったかと思います。

 1995年(平成7年)。東京のベッコアメというプロバイダに契約して初めてインターネットというものに触れて感動。将来はこれが日本の情報の基幹になることを確信しました。普通の電話回線で遠距離接続でしたので通話料にビクビクしながらも、それよりこの先が世界中と繋がっている事が信じられなくて世界中のホームページを見て回って楽しんでおりました。

 1996年3月。それまでインターネットを見て回るばかりでした時代から「自分でホームページを持ちたい」と思い、初めてレンタルサーバーを契約。わずか35メガの容量のスペースを借りただけで月額2万円を支払っていました。 HTMLを書いてサーバーにアップするとそれがうまくブラウザで表示される、ただそれだけで驚いて嬉しくて感動をしてしまっていました。特に、掲示板などの文章そのものが変化するページは、とんでもない技術なのだろう、とても手が出せないものなのだろうと思いこんでいました。

 1996年4月。ドメイン名を取得。まだまだ考え方が地域に縛られていましたので地元の呼び名をドメインにしました。今ならもっとすごいドメインを取得出来たと思うのですが、その時はまだその貴重さに気づいていなかったのです。フリーで当時公開され始めていたあこがれの掲示板を少し手直しして(自由に使っていいと公開されていたので)「たんごBBS」を始めました。当然ですが丹後(京都府北部の旧国名)地方の掲示板ですから参加者はほとんどありませんでした。

 1997年5月。次第に拡がりを見せ始めたインターネットでなんとか仕事に結びつけられないのかという試行錯誤の中で、全国の友達作りのページを作ってみてはどうかと思い、それまでの掲示板の限界を覚えたので自分の思う掲示板が作りたくCGI(Perl言語)の勉強を始めました。

 1998年1月。これまでと全く異なる形式の会員制のホームページが完成。密かに公開しましのが、どこから伝わったのかものすごいアクセス数で、当時借りていたサーバーが転送量に応じた課金だったため利用料がものすごい事になり、急遽、転送量無制限のレンタルサーバーに引っ越しをしました。

 1998年5月には専用のドメイン名も取得。無料での提供ということもあったのでしょうが、本当に爆発的な拡がりでした。その後、利用する会員の方から有料にした方がいいのではというアドバイスをいただいて有料化。名実共にすごい「出会い系サイト」が出来てしまいました。今でこそ「出会い系」というと悪の巣窟の様に言われておりますが、当時は毎月「素晴らし方と出会えて良かった」とか「結婚しました」とかの感謝メールがたくさん届きましたし、利用者も大企業の社員の方が多く(インターネットの環境がまだ限られていたのです)、有名人や警察の方々までもが利用をされていたのが懐かしく思い出されます。しかし、これでウェブプログラミングというのを勉強することが出来ました。

 話が細かくなり過ぎましたが、その後は、ホームページ制作、レンタルサーバー事業などをして、いろいろと取り組んだ後、現在の会社のメイン事業となっている所謂コンテンツ事業へと転換をしました。

2011年に「勝手にAndroidアプリ大賞2011」というのが東京で開催され、まだスマホアプリの少なかった頃でしたから、弊社が当時作りました「ちょっと」というアプリが賞をいただきました。優秀だったからというのでは無くて、高齢の者が田舎で作ったというので、応援の気持ちをこめてお贈りいただいたのだと思い、感謝いたしております。授賞式に東京まで行きました。いい思い出です。

こんなイベント→ここです

2017年に、興味を持っていた360度映像の面白いものが何か無いかとネットサーフィンをしていて、米国のマターポート社のサイトでインドアビューを発見。グーグルのインドアビュー以上のそれを見て感動し、すぐにその会社からカメラを購入し、正式なライセンスを得て制作する事業を始めました。それが現在の「ルック京都」です。